狼と香辛料 若草色の寄り道 支倉凍砂 ・ イラスト/文倉十 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》…ルビ |…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)その昔|近隣《きんりん》に [#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから〇字下げ] ------------------------------------------------------- [#挿絵(pic/01.jpg)入る]  賢狼ホロと行商人ロレンス。  二人のたびの寄り道は——?  他愛ない会話はわっちも好きじゃ。  その中でも一番すきなのはな——。 [#改ページ]  寒さの厳しい季節であっても、時として春かと思うような日和《ひより》がある。  風はなく、じっとしていると日差しが熱いくらいに感じられる。  時は金なりという商人でも、こんな日だけは足を止め、あるいは荷馬車を道から逸《そ》らし、羊や牛に食い荒らされていない草地を選んで寝転んでみたりする。  側《そば》に置くのは、わずかなぶどう酒とライ麦パン。  高い空を眺めながら、時折ぶどう酒で口を湿らせ。ライ麦パンをひと口かじる。  ともすればパンを噛《か》むのすら面倒くさくなってしまい、だらしなくパンをくわえたまま、うとうととしてしまう。  体にかけた毛布は日の光を一杯に浴び、まるで暖炉の側で寝転んでいるかのように錯覚《さっかく》する。  耳に届くのは小鳥のさえずりと、太陽の光が降り注ぐ音だけ。  旅に暮らす者たちの特権の享受《きょうじゅ》。  魔《ま》が差すには。十分すぎる特権だった。  事の発端《ほったん》は、一枚の地図だった。  ようやく欠伸《あくび》が消えるという日も昇りきった午前中、荷馬車を駆ってあちこち旅をする行商人のロレンスは、単調な道を行くのに飽きて、減多《めった》に見ない地図を広げていた。  何年か前に、怪しげな財宝のありかを示した宝の地図と一緒《いっしょ》に二束三文《にそくさんもん》で買い取ったものだ。  財宝の地図のほうは内容と共に今にも砕け散りそうな質の悪い紙であったものの、もう一方の地図は羊皮紙《ようひし》で作られた丈夫《じょうぶ》なもので、きちんと実用に耐えるものだった。  その地図を手に取り、視線を東に向ける。  ロレンスたちが進んでいる道は、長いこと森と平行して続いていた。  その森は、すぐ側を通る道がほとんど草の生えない荒野と呼んで差し支えのないものであるにもかかわらず、一年中木々の生い茂る黒々とした森だった。  ただ、鬱蒼《うっそう》としたその森も、その昔|近隣《きんりん》に新しい町を作る際に大量の樹木を伐採され、面積が半分になってしまったと聞いていた。  ロレンスが手にしている地図にも、大昔の森の大きさが一緒に書かれていて、過去、いかにこの地域においてこの森が偉大だったかが示されていた。 「どうしたのかや?」  と、ロレンスが荷馬車の御者台の上であれこれ視線を巡らせていると。荷台の上でごろごろしていた旅の連れ、ホロがそれに気がついたらしい。  振り向くと、ともすれば修道女にも見えるような格好のホロが、荷物の上に寄りかかったまま、横着に頭をさかさまにしてこちらを向いていた。 「伐採場があるんだよ」 「伐採場?」 「昔のだけどな。森の木を切って材木を調達する場所だ」  しかし、ロレンスの興味の矛先はもちろんそんな森の過去の偉大さではない。  視線を森へと続く道に向け、その先にあるらしい草原を思ってのことだった。 「ほう……それが、この道の先に?」  ロレンスは、視線を手元の地図に戻して、ホロに説明する。 「森を挟んでこっち側は町と村々をつなぐ交易路でな、羊や牛が大量に通過するせいで丸裸のごらんの有様だ。が、森を挟んだ向こう側には肥沃《ひよく》な草原が広がっているらしい」 「肥沃な草原?」  ホロは体を起こすこともせず、声だけを向けてきた。 「この時期でも、青々とした草がなだらかな斜面に沿って生い茂っているそうだ」  ホロはしばし返事をしなかった。  ロレンスが少し気になって振り向くと、不機嫌《ふきげん》そうな目を向けられた。 「わっちゃあ羊ではありんせん。草が生えておっても嬉しくともなんともないんじゃがな」  つまらなさそうな声。  きっと、たまたま荷馬車の側を通りがかった者であれば、この言葉の意味はよくわからなかったことだろう。  ただ、それは別に変な言い回しだったりするわけではない。  ホロの頭の上にはおよそ人のものとは思えない立派な狼《おおかみ》の耳が鎮座《ちんざ》し、その腰からはふさふさの毛並みの尻尾《しっぽ》が生えている。  見た目は十五か十六といった少女のものでありながら、その真の姿は人を軽く丸のみにできる巨大な狼だった。  ホロの言葉に首をひねった者でも、その真の姿を見れば言葉の意味は十分に納得できたにちがいない。 「それは失礼。だが、草を食《は》むためだけに使うのはもったいないな」 「ふむ?」 「この陽気だ。斜面に沿って日の光がいっぱいに降り注ぐ草原は、ちょっと魅力的《みりょくてぎ》じゃなかろうか?」  その瞬間《しゅんかん》、ホロの目があらぬ方向を見て、直後に尻尾が手の中でうねうねと動きだした。  想像力豊かなホロのこと、その草原の使い方を実に的確に理解したことだろう。  だから、次にホロが口を開いた時、出てきたのは一足飛びの質問事項だった。 「じゃが、ぬしは旅を急ぐのでは?」  森を抜けて日の光が降り注ぐ草原でごろりと昼寝、というのは、時は金なりの商人にとっては首に縄《なわ》を巻くような行為に等しいだろう。  ただ、旅の遅れを一応気遣ってそう聞いてくるホロの目は、歴代の皇帝を骨抜きにしてきた絶世の美女|達《たち》ですら裸足《はだし》で逃げ出しかねない媚《こ》びたものだった。  これくらいされれば逆にいっそすがすがしい。  それに、尻尾はそれこそ口ほどにものを言っている。  ロレンスとしては、こんなに喜んでくれるのなら多少旅が遅れたところで構わない。  むしろ、のんびり日向ぼっこするだけでホロが喜んでくれるのならお釣りがくるくらいだ。  ただでさえ娯楽《ごらく》の少ない無味な旅路だから、ちょっとした気晴らしは必要だった。 「素早く進むためには休養も必要だからな。ただ、期待させてなんなんだが……」 「なんなんだが?」  ロレンスは、地図をひらひらとさせて後を続けた。 「いかんせん地図が当てになるかどうかわからない。森を抜けるのが困難そうだったら、諦《あきら》めよう」  これが子供相手ならば言いにくい言葉だが、幸いなことに相手は賢狼《けんろう》と呼ばれるホロ。  ロレンスがどんなことを考えてこんな提案をしているのかきちんと理解してくれている。  仰向《あおむ》けに尻尾の毛づくろいをしていたホロは、寝返りを打つとうつぶせになって、上目遣いにこちらを向いた。 「なに、それなら木漏《こも》れ日の下でごろ寝をすればよい」  ロレンスが草原の話をしてホロがその様子を想像したように、今度はロレンスがホロの話した様子を想像する。  一年中葉の落ちない森の中、時折ちょっとした風が木々をざわめかせる音を聞きながら、木漏れ日の下で二人、優雅に昼寝をするのも確かに悪くない気がする。  ロレンスがそんな想像から戻ってホロに視線を戻すと、「どうじゃ?」という無言の問いかけを向けられた。 「悪くない」 「決まりじゃな」  ロレンスは地図を置いて手綱を、ホロは再び寝返りを打って仰向けに。  そして、荷馬車は森の中へと続く道を進んで行った。  それはうららかな日和の、欠伸も消えた午前中のことだった。  森の中に続く道は、今も誰《だれ》かしらが使っているらしい。  狩人か、木の実を採集する者か、あるいは野蜜《のみつ》や薪《まき》を取りに来る者かもしれない。なんにせよ道はそれなりに整備されていて、荷馬車でも楽に入っていくことができた。  森の中は適度に静かで、通度に騒《さわ》がしく、気楽な寄り道にはうってつけだった。  森に入るまでは一応ロレンスを気遣って酒に手を出していなかったホロも、鳥のさえずりを肴《さかな》にぶどう酒を舐《な》めていた。  もちろん、とっくに寄り道気分のロレンスも怒りはしない。  ただ、時折荷台を振り向いては「全部飲むなよ」と釘を刺しつつ、賄賂《わいろ》とばかりに皮袋を差し出してくるホロの手から酒を受け取っていた。  手元の地図によると、ロレンスたちが進んでいる道は縦に細長い森を横に突っ切るように伸びていた。また、そこは細長い森のくびれた部分にもなっていて、要するに森を迂回《うかい》せずに越える際にもっとも通りやすい道、ということになる。  しかし、地図どおりに道が伸びていないなどといったことはままあることで、しばらく順調に進んでいたところで道が大きく右に曲がっていた。  その道は地図にはなく、倒木やがけ崩れで古い道がふさがれたせいで新しく作られた道、というわけでもなく、元々そちらに伸びているように見えた。  地図にはない道であったが、分かれ道でもなかったので迷うこともないだろう。  ロレンスはそう判断して、道なりに馬を進めていった。 「冬の森はの」  と、ふとホロが荷台で口を開いた。 「昼間ではなく、早朝に来るのがよい」  見晴らしのいい道ではなく、沢や木の根っこにいつ何時《なんどき》車輸をとられるかわからない道なので後ろは振り向けなかったが、口調からしてだいぶ酒が回っていることが窺えた。 「どうしてだ?」 「ふむ。この森でも、それなりに落ち葉が積もっておるじゃろ? 夜の寒さに負けてぐっしょりと濡《ぬ》れた落ち葉がな、朝の光を受けて白い湯気を立ち上らせるんじゃ。そこで深呼吸をしてみれば……」 「冬の乾いた空気に慣れた肺には、その湿った空気がたまらなくうまい」  ロレンスが後を続けると、ホロは「ふむ」と満足げにうなずいた。 「昼間に来るならば夏の森じゃな。強い日差しの木漏れ日が頬《ほお》に注ぐと、鳥の羽でくすぐられておるみたいじゃからな」 「だが、夏の森は虫が多すぎる」  ロレンスだって旅に幕らす人間だから、四季の森の良し悪《あ》しくらいわかっている。  予想通り、ホロのくすぐったそうな笑い声が聞こえてきた。  夏の木漏れ日の下で、うるさそうに尻尾を振って虫を追い払うホロの姿がまざまざと目に浮かぶ。 「ま、森は良いところでありんす。ここのところ平野ばか……い……あふ……じゃったからな……」  そろそろ昼寝の頃合《ころあい》だろうか。  ホロは欠伸交じりにそう言って、ごそごそと毛布かなにかをいじくっている。  まだ草原までは遠そうだったので、いそいそと寝に入ろうとしている旅の相方に、ロレンスはこう言って抗議した。 「森に限らず、平野でもどこでも常にそれなりに楽しい場合がある」 「……ふむ?」 「旅の連れと、とめどもない会話をしている場合だ」  天気のよい日の平野での単調な行程は、ある種の我慢《がまん》強さを試す試練と呼べることがある。  それでなくたって、後ろの荷台でのんびり昼寝をされたら一人手綱を握らなければならないロレンスには面白《おもしろ》くない。  だからあえてそう言うと。頭のよいホロはロレンスの言いたいことに気がついたらしい。  ひょいと御者台の背もたれに顎《あご》を乗せ、いたずらっぽくロレンスのことを見上げてきた。 「わっちゃあ狼じゃからな。生憎《あいにく》と歯ごたえのない会話は好きではありんせん」  軽い攻撃《こうげぎ》。  ロレンスは、やんわりと受け流す。 「ならば、晩飯をなににするかという白熱の議論でもいい」  ホロが少し唇を尖《とが》らせる。 「白熱よりも、ぬしが赤熱するような会話をしてくりゃれ?」  ホロは半目になって、耳の付け根をロレンスの腕に軽くこすりつけてくる。  酔っているのか、と思って油断するとてぐすねをひいて待っているのがホロの流儀《りゅうぎ》。  単純に耳の付け根がかゆかったのだろうと思っておく。 「赤熱? それはあれか。思わず顔が赤くなるような、か?」 「くふ。うん」  ホロが犬か猫であれば手荒く撫でまわして干し肉の一つでもくれてやるのだが、生憎と隙《すき》を見せればこちらが食われる狼だ。  ロレンスは腕を上げ、ゆっくりとホロの頭の上に肘《ひじ》を置く。すぐに「む」とホロが喉の奥で不満げにうめいて、きつい視線を向けてきた。 「お前がどれだけ酒を飲んだのかと考えるだけで、顔が真っ赤になりそうだ」 「……そんなに飲んではおらぬ」 [#挿絵(pic/02.jpg)入る]  ホロは酒を飲んでもまったくといっていいほど顔に出ないので、見た目はほとんど変わっていない。  しかし、遠まわしに嫌味《いやみ》をいわれたホロはちょっと気になったらしく、ロレンスの肘の下から抜け出るとごしごしと顔を拭《ぬぐ》っていた。 「日の当たる草原でのんびり一杯、というのを楽しみにしておくんだな」 「そんなに飲んではおらぬというのに」  不満げにホロは言い、荷台に引っ込んで荒々しく横になった。  その様子がちょっとばかり本気で怒っているようにも感じられたので、もしかしたらホロはロレンスの分をきちんと量って飲んでいたのかもしれない。  そこのところを信用していないわけではないが、やはり疑われたらホロとしては面白くないのだろう。  ロレンスはそう思い、少し謝っておくかと後ろを振り向くと、ちょうどホロと目があった。  その時のにやりという笑みは、十分ロレンスのため息に見合うもの。  心配になって振り向かせるまでが、ホロの描いた絵図だったのだ。 「ま、実を言うと他愛《たわい》ない会話はわっちも好きじゃ。その中でも一番好きなのはな」 「哀《あわ》れな行商人をからかう類《たぐい》のものか?」 「む? うむ、それはそれでよいな」  なかなか道は森の外に出ず、草原はまだかと目を凝《こ》らしてみると、いつの間にかもう一本の道が平行に通っていて、少し先に行ったところで交差しているようだった。  ホロの言葉に肩をすくめつつ、ロレンスは地図を取り出して目を落とした。 「なら、どんな種類の会話が好きなんだ?」  地図と道とを交互に見ながら、時折木々の向こう側を見通すように目を凝らす。  どうやら今ロレンスたちが通っている道以外にも、複数の道が森の中には存在するらしい。  しかも、それらは複雑に交差している感じがする。  だとしたら迷う前に引き返したほうがいいかもしれない。  ロレンスがそんなことをぽつりぽつりと思っていると、突然首筋に刺すような視線を感じて振り向いた。 「……こういう会話は、少なくとも好きではありんせん」  不機嫌そうに、ホロの尻尾がゆらゆらと揺れている。  頭が空白になったのも一瞬のこと。  他愛のない会話と、おざなりに相手をされる会話は似て非なるものだ。  一人旅では気にしたこともなかったので、迂闊《うかつ》だった。  ロレンスは、素直に謝った。 「悪かったよ。それで、どんな会話が好きなんだ?」  そして、ロレンスが改めてそう聞きなおすと、ホロの顔が一瞬で呆《あき》れ顔になった。 「わっちゃあ子供かや」 「え?」 「会話には流れというものがあるじゃろうが。これで、はいそうでありんすね、とわっちがすんなり話せるとでも思っておるのかや」  ホロの言葉の直後、車輪が木の根っこを踏《ふ》んでがたんと揺れた。  ロレンスは慌てて前に向きなおり、それから、またすぐに後ろを振り向いた。  ホロは荷物の上にうつぶせになって、眠る体勢だ。  顔は、ロレンスに向けられていない。 「……」  ロレンスは気まずく前に向き直り。額に手をやった。  馬を相手に独り言を言っていた生活では、経験したことのない事態だ。  どうやって謝るべきか、とあれこれ考えたが、きっと取り繕《つくら》おうとすれば泥沼に違いない。  ロレンスは、覚悟を決めてこう言った。 「悪かったよ」  さっきと同じ言葉。  ただ、会話には流れというものがある。 「ふん」  不機嫌そうに鼻を鳴らしたホロのそれは、ロレンスを許してくれるものだった。 「それで……いつになったら森を抜けられるのかや」  言葉に間があったのは、皮袋に口をつけていたからだろう。  結局、ホロが好きな他愛のない会話とやらがなんなのかは教えてくれなかった。 「森の精霊《せいれい》は森の中に道を作れるというが、賢狼ホロにはそんな便利な力はないのか」 「麦畑でなら、それもできぬことはない」 「へえ、本当か? ちょっと見てみたいな」 「機会があれば、の」  ホロのそっけない口調は、それに文句をつければ見返りを要求するための餌《えさ》だろう。  ロレンスは危ういところで、言葉を飲んだ。 「しかし、なんだか妙な森だな」  荷馬車が一度揺れたのは、交差した細い道を越えたせいだ。 「妙とは?」 「ずいぶんたくさん道がある。伐採した木を運ぶにしても、妙な感じがするな」  やはり道に迷う前に引き返すべきだろうか、と思う。  そろそろ昼を過ぎる。  目が頭上を越えると、影の向きが変わる。  道は一応覚えているが、影の向きが変わると道の印象も変わり、その分迷いやすくなる、 「……」 「どうしたかや」  ロレンスが思案していると、ホロが声をかけてきた。 「迷う寸前かや?」  ホロの意地悪な笑み。  旅に生きてきた行商人として、それが冗談めかした親切からの忠告だとしても、ちょっとむっとした。 「せっかくここまで来たんだし、一応道順は覚えてるから問題ない」  自分が意地を張っている、ということには気がついた。  ホロはそれに気がついているのかどうか、しばらく黙《だま》って尻尾をゆらゆらとさせた後、起こしかけていた体を荷物の上に投げ出した。 「ま、ぬしは旅に生きる者じゃからな」  余計な口を挟んで悪かった、とばかりにホロは意見を引っ込めた。  ごとごとと荷馬車は進む。  相変わらず道は複雑に混ざり、うねり、道は一向に開けない。  時間は刻一刻と流れ、挙句の果てに五叉路《ごさろ》に行き当たった。  普通の旅路では神のお慈悲《じひ》を乞《こ》う場面だ。  ロレンスは馬を止め、天を仰ぐ。時刻は正午を過ぎ、草の上に寝転ぶには最適の時間といえる。言うなれば、もうこれを過ぎれば最適な時間ではないということだ。  帰りの時間のことを考えれば、もう今この瞬間に草原についていなければならないくらいだろう。  しかし、せっかく寄り道をしてここまで来たのだから、一度も草原の姿を拝まずに引き返すというのはあまりにも間抜けだ。  なにより、ホロの忠告を無視しているので恰好《かっこう》がつかなかった。 「……」  ロレンスは御者台の上で黙考《もっこう》し、馬をとめたまま歩かせることも忘れていた。  合理的な判断としては、このまま先に進むよりかは、引き返したほうがよいのは明白だ。  それでも、ここでやっぱり戻ろうといえば、ホロになんと言われるかわからない。  それが見栄からくるものだとはわかっていても、潔《いさぎよ》く飲み込むことにどうしても抵抗がある。  ロレンスの葛藤《かっとう》を知ってかしらずか、ホロが尻尾をばったばったと振っている。  明らかな挑発。  ロレンスはやはり前に進もう、と手綱を握りかけて、はたと気がついた。  もしもこのまま無理に進んで、道に迷ったとしたら? 「……」  そして。  やっぱり引き返そう。  ロレンスが胸中で結論を出した直後だった。 「んふ。まったく、ぬしは可愛《かわい》いのお」  突然、御者台の背もたれに顔を乗せたホロが、出し抜けにそんなことを言ってきた。 「ぬしもわっちのような耳と尻尾をつけたらどうじゃ?」 「ど、どういう意味だ」  口調が硬くなってしまったがホロは一向に気にしない。 「ぬしほどなにを考えておるかがわかりやすい雄《おす》もおらぬということじゃ」 「なに?」  若干《じゃっかん》の苛立《いらだ》ちを交えてロレンスが聞き返すと、ホロが体を起こして顔を近付けてくる。  思わずロレンスがのけぞったのは、ホロの笑みの質が変わったからだ。 「わっちの忠告を蹴った手前、引き返そうと言い出すのは癪《しゃく》じゃが、かといって進むには危険が大きい。さて、どうするか」  図星。  ロレンスが思わず顔を背《そむ》けると、ホロは笑顔のまま、ずいと顔を近づけてきた。 「ぬしがつまらぬ意地を張っておることくらいすぐにわかりんす」  何百年と生き。賢狼を自称するホロ。  ホロの顔が、頬に息のかかる距離にまで近づいて、ロレンスはさらに逃げようとする。  しかし狭い御者台の上。  向かい合ったホロの琥珀色《こはくいろ》の目は、すべてを見通す占い師のようだった。 「じゃがな」  と。そのあとに続いたホロの口調は、拍子抜けするほど柔らかかった。  しかも、もはやあとは口を開いてガブリと頭から食べるだけ、という距離にまで近付けていた頭もあっさりと引いた。  ホロの態度の変化についていけず、ロレンスはホロが御者台の背もたれに腰かけるのをぼんやりとみつめていた。 「よっと。じゃがな、ではなぜぬしがそんな意地を張るかと考えればな、わっちにゃあ怒ることなどできんせん」  背もたれに座っているので、ホロのほうがロレンスを見下ろす形になっている。  いつもとは逆の構図だが、こちらを見下ろしてくるホロの様子は、腹立たしいほど様になっていた。 「ぬしは、背伸びしてでもわっちの優位に立っていたいんじゃろう? そんな仔《こ》のようなことを考えておるんじゃ。わっちにはどうしたって、怒ることなどできんせん」  嘲《あざけ》るような笑顔、だったらまだどうにかなったような気がする。  ロレンスがホロに反論しようとして、少年のように失敗してしまったのにはわけがある。  気負いも衒《てら》いもなく、年上の姉のように微笑《ほほえ》まれていたのだ。  そんなことされたら、手も足も出ない。  それに、図星なところが救いようがなかった。 「ぬしのよくないところはな」  ホロは喋《しゃべ》りながら身軽に御者台へと降りる。  隣《となり》に座ると、身長差から、ホロのほうが見上げる形になった。 「なにもかもを天秤《てんびん》で判断しがちなところじゃな」 「……天秤?」 「うむ。右が重いか左が重いか、あるいはどちらが上か下か。そんなことばかり気にしておるから、だめなんじゃ。商人としては正しいことなのかもしれぬがな」  ごそごそとしているのは、荷台のほうに手を伸ばして毛布を引っ張りあげたから。  そして、毛布を引き寄せ終わると、突然手綱を握るロレンスの手を軽く叩《たた》いてきた。 「で、いつまで手綱を握っておるんじゃ?」 「……え? いつまでって、これから、戻るんだろうが」  ホロの言葉の意味がわからず、ロレンスが思わず怪訝《けげん》そうにそう言い返すと、たちまちホロの顔は呆れ顔になった。 「まったく……わっちゃあぬしに言ったじゃろう? ぬしに必要なのはな、流れを見極めることじゃ、と」  確かに、話の最中にそんなことを言われたような気もする。  だが、それと、手綱を放すこととのつながりがわからない。  またなにか複雑な罠《わな》の中に放り込まれているのか、といぶかしんだのもつかの間、すぐに自分の思い違いに気がついた。 「あ!」 「まったく。ようやく気がついたのかや」  返す言葉もない。  ついさっきまでの流れを追えば単純なこと。  この森に入る前に、ホロとどんなやり取りをしたのかと考えれば当たり前のことだ。  森を抜けるのが困難であれば、どうするのがいい、と言った? 「初めからそうすれば良かったのに、勝手に沼の中へと歩いていこうとしておるのじゃからな。わっちが労せずぬしの足元をすくえるのはな、わっちが聡《さと》いからではなく、ぬしがたわけなだけじゃ」  ホロに引っ張られて手網を放し、ロレンスは手持無沙汰《てもちぶさた》になった両手を閉じたり開いたりしてしまう。  言われれば当たり前のことなのに、まったく気が付けなかった。 「それにな、わっちのご機嫌取りなら、革原にこだわる必要はまったくなかったとわかるかや」  毛布をばさりと広げ、器用にロレンスもまとめてその内側にくるんでしまう。  これもまた流れを見誤っていた。  ホロは旅路の中でなにが好きだと言った? 「他愛のない会話の中で、なにが一番好きなのか」 「うむ。それを確認しておれば、もしかしたら、無理に草原に行く必要などまったくなく、なおかつわっちのご機嫌を最大限によくできたかもしれぬのに」  ホロの口調はとても楽しそうだ。  実際に楽しいのだろう。  ロレンスが、こんなにも減多打ちなのだから。 「で、なにが一番好きだったんだ?」  こう尋ねた直後、ロレンスは驚《おどろ》いてちょっと目を見開いてしまった。  それは。ホロが怒っていたからでも、呆れていたからでもない。  ましてや軽蔑《けいべつ》しているとか。嘲笑《ちょうしょう》しているとかいうわけでもない。  ロレンスが尋ねると、ホロは恥《は》ずかしげにはにかんだのだ。 「くっくっ……実を言うとな、こんな流れでしか言えぬことなんじゃ」  ホロは自分の言葉がくすぐったくてたまらない、といったふうに首をすくめ、一人でくつくつと笑っていた。  よっぽど恥ずかしいことなのかもしれないが、だとすれば、それを口に出すのはなるほど最高の頃合だった。  今、ホロは圧倒的優位にいる。  なにを言ったって、許される。 「わっちが好きなのはな、こんなふうに喋りながら、そのまま眠りに落ちること。他愛もない、耳にくすぐったいだけの言葉を聞きながら、の……」  最後は恥ずかしさのせいか、顔を背けてしまった。  確かに、喋りながら眠りに落ちるのが好きだなどと、子守唄《こもりうた》を聞きながら寝るのが好きだと言っているのと変わらない。  ただ、そう言われると、恩い当たる節がある。  話している最中にホロが眠りに落ちてしまうことはたびたびあった。  ロレンスはそれをホロの我儘《わがまま》さのあらわれだと思っていたのだが、よもや真相がこんなことだったとは。  背けているホロの顔を覗《のぞ》き込んだら、もしかしたら冗談ではなく赤くなっているかもしれない。 「どうじゃ、たわけじゃろう?」 「……残念ながら、その通りだ」  ホロはこちらに向き直り、恨めしそうな頭をして肩に頭突きをしてきた。 「じゃが、今、優位に立っておるのは誰じゃろうな?」  一番のたわけは、勿論《もちろん》のこと確かめるまでもない。  このことを聞き出していれば、ホロの優位に立てたのは間違いなくロレンスだ。  草原に行くことにこだわる必要もなかったし、無駄な意地を張る必要もなかった。  むしろホロのほうが変に意地を張っていたかもしれない。  流れを慎重に見極めていた、ホロの勝利だ。 「お前には敵《かな》わない」 「当然じゃな」  もそり、と身じろぎして、直後にホロの狼の耳が小刻みに震《ふる》えて、あくびが聞こえてきた。 「ほれ……わっちが一番好むことを言ったんじゃ。なにか、話してくりゃれ?」  こんな子供っぽいことをねだられているのに、手綱を握っているのはホロなのだ。  ロレンスは悔しくてたまらないが、嫌な気がしない理由はもちろんよくわかっている。仕方ないので晩飯の侯補の話をしてやった。  いつもと同じ、味気ないパンと干し肉と、干した木の実の食事。森の中を走ればもしかしたら鶉《うずら》やウサギが獲れるかもしれない、と話したときのホロの耳の立ち方には笑ってしまった。  そんなことを取りとめもなく話してやっていたら、やがてホロは寝息を立てていた。  ついさっきまではロレンスのことを手玉に取り放題だった狼は、遊び疲れたといった風情《ふぜい》だ。そんなホロを見ながら、いつか自分も流れを上手につかんでホロの優位に立つことができるのだろうか、とロレンスは思う。  草原の上ほど暖かくはないが、二人で一つの毛布の下にいれば勝るとも劣らない。  子供のように、少しだけ体温の高いホロと一緒にいるとなおさらだ。  しかし、寝ている時はこんなにも無防備なのに、と思わなくもない。  鼻をつまんだって起きないだろうし、産毛《うぶげ》に覆《おお》われた耳の中に指を突っ込んだって平気かもしれない。  散々滅多打ちにされたロレンスは、あんまりにも無垢《むく》な寝顔を見てそんな復讐心《ふくしゅうしん》を心のうちでもてあそんでいた。  すると、神の思《おぼ》し召しかもしれない。  ふと、と少しホロの体勢が崩れそうだったので、ロレンスはそれを支えがてら、ささやかな反撃に出た。  こっちがお前の保護者なんだぞ、と示すように、ホロの細い肩に腕を回して。  そして、自らも目をとじようとした、その瞬間だった。 「合格」  ホロの小さい声が聞こえて、体が凍りついた。ここが、一連の流れの行きつくところだったのだ。  少しだけ顔を上げたホロは意地悪そうに笑い、その唇の下では牙《きば》が光っていた。 「罠は、滝つぼに置いておけばよい」  ロレンスは、流れとしてこう続けざるを得ない。 「勝手に……馬鹿《ばか》な魚がはまってくれるから?」  ホロはうなずき、くつくつと笑う。  ロレンスは天を仰ぎ、悔しさの余り、ホロの肩に回していた腕でその首を軽く締《し》め上げた。  途端に嬉しそうに暴れるホロの尻尾。  まったく、馬鹿なこと。  本当に、馬鹿なこと。  寄り道をして時間を浪費するなど商人にとっては首に縄を巻くような行為だ。  もう、その時点で勝負はついていた。  商人がいそいそと自分の首に巻いた縄の、その先端はだれが持つ?  ほかに誰がいるわけでもない。  ロレンスは、がっくりとうなだれて、ホロの頭の上に、自分の顔を重ねた。  この流れでいえば、おさまるべきはそこである、といわんばかりに。 [#地付き]END [#改丁]  あとがきがわりに……  「春近し……」でひと言  支倉凍砂  今年は海外旅行に行くことを目標にしています。書いている本が本なので、北の国がいいよなあと思っています。しかし真冬に北の国に行ったら死んでしまうかもしれません。なので、私は春になったら北の国に行くんだ……とこの場に宣言しておきます。  文倉十  ……最近やけに眠たいのは春が近づいて来ているせいかもしれません。寝るの大好きな自分にとって、春は冬以上に起きるのが辛い季節ですよ……! 底本:電撃文庫MAGAZINE プロローグ2 (月刊電撃大王3月号増刊) 発行 (株)メディアワークス / 発売 角川グループパブリッシング  二〇〇八年三月一日 発行 第十三号第六号通巻百六十四号